佐賀の乱における白石鍋島家臣団の苦悩

画像の説明

この画像の文書は、佐賀藩鍋島氏の親類家である白石鍋島氏(2万0,277石)の家臣のご子孫のご自宅で撮影させて頂いたものです。以前から家にあったが、何が書いているか分からないまま持っておられたとのことでした。

家系調査をしていると、このようにまだその家の方々以外の誰もが見ていない古文書に巡り合えることがあります。

全部で40項ほどのもので、明治7年の佐賀の乱において、前山清一郎を中心とする中立党に属した白石鍋島家臣団の乱前後の様子を記したものです。

佐賀の乱は、江藤新平の征韓党及び島義勇の憂国党が協同して起こした明治新政府に対する最初の士族による反乱であり、旧佐賀士族の大半がどちらかの党に組した大規模なものでした。

このように、佐賀中が反政府として沸騰している中で、征韓党にも憂国党にも属せず中立を保つというのは、非常に微妙で難しい立場に成らざるを得ません。中立というと聞こえはよいが、実質は政府側に付くということであり、同郷人からすると裏切り者以外のなにものでもないわけです。

この史料では、白石家臣団が征韓党や憂国党の入説も受けつつも、最終的に中立党に加担することを決定。当初112名(実質86名)のメンバーが紆余曲折を経て、最後には20名となり、その内実戦部隊に参加するのは病弱者を除き僅かに8名だけとなる過程が書かれています。(なぜ、中立党を選んだのかが分からない)

ちなみに、この8名とは、
深堀彩蔵・高木恒作・中島多助・廣本良雄・原憲治・石丸力太郎・森山孫八・船越与一
というメンバー。彼らが、前山清一郎を中心とした中立党の戦闘部隊のメンバーとして、官軍の先導となって同郷人を討つ側に回るというわけです。

さらに、この史料の後半部分は、政府に対する謝罪の関係文書が続いています。
「自分達は反政府軍に属せず、中立党に属していた」
という趣旨のものであり、罪を免ぜられるよう嘆願する様が読み取れます。

佐賀の乱を扱った他の書籍にも書かれていましたが、乱の終息後も反乱側と中立党との確執はしばらく続いたようです。反乱側に属して賊軍となった方からすると、中立党の連中は憎き裏切り者なわけですから、当然の感情かも知れません。特に最後まで中立党に組した20名の立場は、非常に苦しかったのではないかと思われます。そのためか、彼らの中には住み慣れた土地を離れた者があり、その多くが旧主白石鍋島氏の本貫地である伊万里方面に転居しているようです。

住み慣れた土地を離れなければならないほど、同郷人から裏切り者とみなされた彼らの苦悩は続いたということなのでしょう。

この古文書のお陰で、違った角度から佐賀の乱を考えることができました。

(記:平成21年7月31日)

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